セーケのほぼ毎日コラム

言葉の製造者責任。

 新型コロナウィルスへの対処方法がSNSで飛び交っている。その情報源がいかなるものなのかは明かされず、書き込まれた言葉だけが拡散していく。
 

 この状態は、まさにマルクス・エンゲルスの経済学哲学手稿にある疎外関係そのものだ。生産された物は、生産者の手を離れた瞬間に敵対関係になるというもの。簡単に言えば、自分のものじゃなくなるということだ。そうすると、僕が創る本についても発行後は責任がなくなるし、PL法で製造責任を問うのも難しくなるのかもしれない。

 が、資本の拡大とプチブルの増加。守られた労働者階級などマルクスの時代には想像もできなかったのだろう。高度化した資本の耐性は戦争を生み出し、労働者階級が疎外されていく。それを解消するためには階級間の闘争によって生産手段を労働者階級は手に入れるために流血は避けられず、計画経済へと進むと説いた時代では考えられないほどプチブルが拡大し、階級闘争より宗教闘争、民族・文化闘争が激しくなっている。

 マルクスは少なくとも宗教間の争いは知っていた。カトリックとプロセスタント、カトリックとイングランド国教など目の当たりにしていたはずだ。が、それに答えを出すことができず、したがって、計画経済下=社会主義社会では宗教を認めないことにした。つまり蓋をしたわけだ。
 

 また、階級闘争を経た社会主義社会は資本が高度に発達したのちに二進も三進もいかずに起こるはずだったのだが、革命ロシアに端を発した革命は資本が高度に発達していない状態で発生した。つまり、資本が発達しようがしまいが、民衆は怒るときには怒るということなのだ。

 ちょっと横道に逸れてしまった。元の道に戻ろう。PL法だ。
 

 高度化した製造プロセスと製品だからこそPL法という歯止めが必要なのだと思う。
 

 では言葉はどうなのだろうか。社会的なようで個人性も完結していないSNSという便利なメディアは誰をも発信源とすることができる。ややこしいのは、そこにシェアなる機能があり、人の意見や切り取ったデータが第一発信者の手を離れ、だれが作った情報なのかもわからない状態で拡散する。これの製造者責任はどうなのだろう。
 

 製造者責任を問わねば、歯止めが企画なる。しかし、製造者を特定することができない。いまや報道番組でさえSNSからの引用があるのだから如何ともし難い。
 

 活字離れと言われるが、ネットワーク上を賑わせているのは活字だ。したがって、正確には「有料の活字離れ」であり、無料の活字が無自覚に使用されているということになる。
 

 こうなるとペイメディアにしたほうがた方がいいのではないかという議論が起きてくる。この考え方に本職は反対だ。情報は誰もが接触し、使用できてこそ意味がある。言い換えれば言葉を使用することを自覚しない環境だ。したがってTVやラジオのようなビジネスモデルこそ正しいと考える。

 つまり、その放送局や番組に対し、スポンサーが資金を提供して制作させ、その見返りに自身の商品や企業を宣伝し、効果を求めるというものだ。
 

 これを雑誌に適用すると、本そのものは無料。制作費をスポンサー料で賄う。しかし、宣伝力を持ったメディアであることが求められる。
 

 その宣伝力とはマス的ボリュームだけではなく、ボリュームは少なくとも消費者との関係や距離が近いことも条件となる。つまり到達力だ。一方のスポンサーは、メディアが生きていくため、つまりコンテンツを製造するために必要な資金を提供することとなる。いまのように、値切り、何度かの記事制作を要求することを繰り返すことでメディアは内容責任を全うするコンテンツを仕上げることが難しくなり、エントロピーが増大する。

この状況は制作者=コンテンツ製造者にプレッシャーとなる。が、製造者責任を担えるだけの内容にせねばスポンサーそのものが支持をしなくなる。
 

 雑誌各社はスマホを使用した情報環境を作ろうとし、ほぼ予定通りにはいっていない。その原因はコンテンツ=商品力にあるのではないかと本職は考える。言葉の製造者責任を全うする内容。そもそも、コンテンツ製造に従事しようとした初発のエネルギーは内容充実を志向していたのではないだろうか。
 

 無料の言葉が飛び交い、製造者責任が分からない言葉が溢れているいまこそ、顔を見たことがない発信者と同じ位置に立つのではなく、堂々と言葉の製造者責任を持つメディアを全うするコンテンツを制作するという初心に戻る時なのではないだろうか。