セーケのほぼ毎日コラム

デジタルタトゥー。

 SNSが大流行りである。フェイスブックに自分の板を作ったり、ツイッターやyoutubeなど、様々なサイトを活用して思ったことや出来事をインターネット上に掲載している。インターネットが通信インフラとしてだけではなく、メディア基盤になっている。

 それ以前は、個はマスんい無力であり、マスに対して大量のコンテンツを発信するメディアは、4媒体と呼ばれる新聞、雑誌、テレビ、ラジオが圧倒的な地位を誇り、一部の企業や官庁が独自メディアとしてPR誌をを発行する程度だった。

 ところが、いまやインターネット上のメディアに独自の「板」を設けることで、自分自身が発信者となることができた。スマホのカメラ性能も高くなり、容易に写真付きの日記や社会的な発信が可能となった。が、ここで4つの問題が出てきている。そのひとつがフェイクだ。分かりやすく人々の感情を惹起するのだが、それは嘘だ。人々は、自身の発信に対して絶対の自信を持っているだけに、人のそれも、自分に引き寄せて容易に信じてしまう。これはインターネット上のメディアを使いやすくなっている弊害と言える。

 もうひとつの問題が言葉遣いだ。実名であっても顔が見えない、または、アクセスの楽さによって、言葉も軽くなっている。厳しく言えば、汚い言葉が多くなり、また、内容の理解度が低くなっている。

 内容の理解度はさて置き、言葉や考え方はずっと残る。本人が消してもネットワーク上に残り、消すことができない。これを刺青に見立ててデジタルタトゥーと言う。

 簡単であることは何かと引き換えねばならないのは人の世だ。4媒体に掲載するときには莫大な掲載料と引き換えにするのだが、インターネット上のメディアはほぼ無料だ。

 引き換えるものがないのに、発信は自由にできる。このうまい話の唯一の落とし穴が、発信や発言が残ってしまうということだ。それだけに、言葉や内容をしっかりと考えておきたい。

 3番目が調べなくなったことだ。SNSへの書き込みやメールによって活字離れが止まり、むしろ活用者が増加しているとされている。が、ネットワーク上に自身のコンテンツを掲載しやすくなったように、何かを調べることも簡単になった。調べることそれ自体が検索手法を磨き、そのプロセスによって脳が刺激される。調べたものが肉となる。いまはこれが弱くなった。しかし、いまは様々な切り口で調べやすくなったのだがから、それを逆手に取り、量的な震度でインターネット以前を超えることはできるはずだ。

 最後の問題は、意外にもコミュニケーションは下手になったことだ。全員が発信者なのだから、じつは人の話を聞く必要はない。きみはきみ、僕は僕という意識はコミュケーションを壊してしまう。ネット上で王道のコミュニケーションは「褒め合う」ことで、議論は嫌われる。これによって、いずれ会話がなくなり、1000万年後は「人類は喋っていたらしい」という記録が見つかることになる。

 簡単に発信できるがゆえに信用性が4媒体に劣るネット上の情報資産。そろそろ、褒め合いから次のステップに踏み出すときがきているのではないだろうか。

 まずは、デジタルタトゥーになっても恥ずかしくない内容と表現を心がけたい。